Kitap · こころ
Sayfa 77 / 185
Yazar: 夏目漱石
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「それでもその人のお蔭で地位ができればまあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」
兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早
呑み込みでみんなにそう吹聴してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先
生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕してい
る父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯
父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものも嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはず
だね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には
説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口に斥けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充ち満ちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後について、こんな風に語り合った。
父は時々囈語をいうようになった。
「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐお後から」
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