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Auteur: 夏目漱石

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私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐ
らいずつの割で倒に読んで行った。私は咄嗟の間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字を、眼で刺し通そうと試み
た。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなもの
は私に取って、全く無用であった。私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈たそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺は存外静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招ぎし
て、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少し
は心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯いた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外朦朧としていなかった。
私はまた病室を退いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手
紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳け込んだ。私は医者から父がもう二、三日保つだろうか、そこのところ
を判然聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎留守であった。私には凝として彼の帰るのを待ち受ける時
間がなかった。心の落ち付きもなかった。私はすぐ俥を停車場へ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ
増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごう
ごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。

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