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Autor: 夏目漱石

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私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅には相当の財産があったので、むしろ鷹揚に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あ
の時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で好いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続
ける事ができたろうにと思います。
私は二人の後に茫然として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事がで
きませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚っていたか、または傍のもののいうごとく、
実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父に万事を頼んでいました。そこに居合せた私を指さすよう
にして、「この子をどうぞ何分」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでに
いうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と
答えました。母は強い熱に堪え得る体質の女なんでしたろうか、叔父は「確かりしたものだ」といって、私に向って母の事を褒めていました。し
かしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹った病気の恐るべき名前を知っていたのです。
そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこ
になると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなもの
にせよ、一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから......しかしそんな事は問題ではありません。
ただこういう風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる廻して眺めたりする癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。そ
れはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえ
って役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、
私は後来ますます他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥
かですから覚えていて下さい。

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